3月18日、大阪の太閤園に東京、名古屋、大阪のほぼ全スタッフとOBたちが集まった。約80名。都合がつかなかったも人も含めてみれば優に100名は越える集団になった。1977年3月、大阪市西区に誕生した小さな広告プロダクションは、二度目の二十歳を迎えた。感謝というしかない。よくぞここまで、という驚きもある。心から、ありがとうございます。  

40周年パーティ


 僕は1983年の夏にコピーライターの学校の先生の紹介でアルバイト入社、翌1984年1月に正社員となった。まだ社員数12名の小さな会社。連日コピーの修行だった。毎日100本。毎朝、社長に提出する。いつもゴミ箱行き。「アホ!ボケ!カス!シネ!」の連続だった。「こんな言葉で人が動くか!」「ラーメン屋の兄ちゃんでも書けるぞ!」と罵倒の嵐だった(毎回、ラーメン屋の兄ちゃんに、なんて失礼な!と思っていたことか)。できなかったら、また100本。さらに100本。コピーは数ではなく、量で査定された。1つの仕事のコピーにOKをもらうのに毎回1000本近く書いたかな。ワープロもない時代、原稿用紙と鉛筆だけ。ペンダコが腫れて潰れた記憶もある。残酷なまでのコピーノックである。徹夜の連続で、いまじゃ間違いなく「真っ黒クロスケ」のブラック企業扱いになる。が、なにくそ!いまに見ておれ!と社長に殺意を抱くほど書いていた(笑)。  

 反面、社内は物凄く楽しかった。昼夜問わず「広告の学校」だった。アメリカの広告をお手本にして、マジソンアベニューのアドマンの考え方や視点を学んだ。先輩の企画書の書き方や巧みなプレゼンにいちいち声をあげていた。当時、秋山晶さんや土屋耕一さん、キラ星の如く現れてきた糸井さん、仲畑さん、岩崎さんのまさしく「コピーの時代」だったのだ。コピー年鑑を書き写し(写経と呼んだ)、文体、文字のリズム、句読点の打ち方も盗んだ。仕事が終わってからも、「広告」を肴にして仲間や先輩と朝まで飲んでいた。そんな熱く青い時代だった。  

 26歳で東京に出た。東京事務所を開設した。デザイナーを一人連れだって、新天地で腕まくりで仕事をした。折しもバブル全盛。ご祝儀仕事もあり、あふれんばかりの仕事に恵まれた。ご縁や社員のやりたいことに応えて、名古屋事務所をつくり、福岡事務所をつくり、そして福岡事務所は畳み(笑)。新規事業をいくつか立ち上げ、いまとなった。2002年には東京と大阪を分社して、それぞれ独立したけど、グループの意識は変わらない。    

 30年存続する企業は0.02%と言われる時代、幸運にも40年を迎えることができた。次はめざせ50年。広告の事業スタイルは変わるかもしれないが、「クリエイティブで世の中にスマイルをつくり続ける因子」は残しつづけたい。僕は個人的には100人規模の1つの大きな会社よりも、10人の会社を10個つくって、やりたいクリエイティブを小粒でも追求できるネットワークになっていくんじゃないかな、と勝手に思っている。後輩たちよ、よろしく頼むよ、楽しんでね。やりたい未来は、みんなの手にあると思います。